みかみかみかみ

おたくの雑記用ブログ

HEROコンビ好きのGX3期・異世界編

 前回の更新からすごい間が空いてしまいました…

 数回目にして不定期極まってるブログですがTwitter上でご感想いただく機会もあり本当に嬉しいです!

 

 最近はVRAINSを見たり5D's見返したりとちょっとシリーズ跨いでフラフラしてました。世界観も作風も違うのに遊戯王シリーズは共通して不思議な魅力がありますね…

 しかし今回もGXの感想記事になります。

 まだまだ書くことある、すごい。笑

 

◆◆◆

 

HEROコンビ好きのGX3期・異世界

 

はじめに

 今までの記事同様、HEROコンビ(十代とエド)ファンから見たただの感想文である。客観的・論理的な考察とかそういう要素はまったく無く、もはやエッセイとかに近い。

私に見えるGX3期という景色を少しでもお伝えできればうれしい。

  

異世界編』の定義

 マルタンユベル)戦の後、十代たちが一度デュエルアカデミアに帰還してから(131話)ヨハン捜索のためにもう一度異世界に旅立ち、ユベルと超融合しアカデミアに再度帰還するまで(156話)をこの記事では『異世界編』と呼ぶ。

 120話~130話も十代たちは異世界にいるのだが、そちらは『漂流教室編』と呼んでいる。(なお別作品になぞらえた呼び方なので正式な呼称でもなんでもない)

 

それぞれの用語

 ・本校生組…万丈目、明日香、吹雪、剣山、翔のこと

 ・留学生組…ヨハン、ジム、オブライエン、アモンのこと

 

 過去記事に倣って大まかなあらすじを書こうとも思ったが、あまりにも難しく断念してしまった。申し訳ない。今回こそ完全に「GXおたく」向けである。 

 

誰のことも責めたくない異世界

  『異世界編』放送時、「誰が悪い」「(本校生組と十代の)どっちが悪い」という議論が激化していた。その後もGXを見る人が居れば常に絶え間のない議論であるようにも思う。

 しかし、GXが成長の道半ばにある登場人物に対して断罪的な態度をとる作品だとは私は考えていないし、感情的なことを言えば愛するキャラクターたちを誰も責めたくないのだ。HEROコンビ好きだから特にそう思う…というわけではないのだが、どうしても話題が二人に偏ってしまうのでこのタイトルで記事を作成している。

 

 皆が皆課題を抱え、壁にぶつかっている。異世界編は『裁判』ではない。彼らにとって『試練』の一つである。そう思えるエピソードに触れていきたい。

 

 十代が「悪い」のか?―エドとヘルカイザーの会話

  ヨハン捜索のために再度異世界へ旅立つ直前(131話)、エドとヘルカイザーが十代について語るシーンがある。

ヘルカイザー「まだ奴には分かっていない。自分の行動の結果に責任が生まれることを」

エド「いや、分かっているからこそ、自らの手でヨハンを助けようとしているんじゃないのか」

 

 エドとヘルカイザーは異世界でも行動を共にし、物語のガイド的な―ナレーションめいたセリフを口にするシーンが多々ある。しかし、言うまでもなく彼らの役割はナレーションではない。十代との関係性をそれぞれに持った一人の登場人物であり、彼らの発言は彼ら自身の見解だ。

 1期終盤(51-52話)しかり、亮は十代への「期待値」が非常に高いキャラクターとして描かれている。常に十代の成長を望み、現状の彼では満足しない。それがヘルカイザーになっても変わっていないという表れである。

 一方エドは、ネオスを得た十代との再戦でヒーローにワクワクしていた幼少期の気持ちを取り戻し、その闘いにより十代のデッキ・デュエルを認めている。その経験が「子供としての十代」を肯定する見解に繋がっていると言えるだろう。

 

 先述の会話にはヘルカイザーの「お前もまだまだ子供だな」というセリフが続く。「子供から大人になる」というテーマが掲げられている異世界編にとって彼の発言が物語の主旨として『是』であることに違いはない。

 かといって、エドの発言が『否』であると描くための会話ではない、というのが私の見方である。「子供の頃の気持ちを忘れない」こと、子供であることをよしとするのが2期(ネオスやネオスペーシアンとの出会い、エドとの再戦など)で描いたテーマの一つだったからだ。

 しかし「それだけではいられない」のがGXの物語である。

 亮がヘルカイザーに転身したことをGXの物語は否定しなかったが、その後それだけではいられなかったように、十代も「子供」であることが「悪い」わけではなく「それだけではいられない」のである。それが異世界編の十代にとっての『試練』である。

 

 

本校生組が「悪い」のか?―邪心経典の元を辿る

  「邪心経典」にて「超融合」のカードを生み出すために仲間たちがデュエルの中で生贄に捧げられ、十代への恨み言と共に消滅していく。十代が「覇王化」するきっかけにもなった、いわゆる「鬱展開」として有名なエピソードである。

 外的要因(「怒」「悲」「疑」「憎」「苦」の感情をそれぞれ増幅させているらしき玉のようなもの)を印象付ける演出はされているものの、本校生組の十代への不満は異世界編開始直後からじわじわと描かれた。

 異世界に到着するやいなや、十代はヨハン捜索に焦るあまり単独行動に走る・合流まで待っている約束を反故にするなど、仲間たちの不満要素となる行動を多々とっている。それにより、「仕方ない」「付いて行くしかない」という言葉が徐々に「自分たち(仲間)のことを考えていない」「独りよがりだ」という批判に変わっていく。もちろん十代に付いて異世界に来たのは彼らの意思だが、「思ったのと違った」ことに間違いはない。

 

 まず、本校生組の十代への不満の元を辿れば「デュエルに敗北すれば命を落とすことを十代は知っていたにも関わらず、一人で闘おうとしていること」だった。

  その後、彼らの不満は「十代はヨハンのことばかりで自分たちのことを顧みない」「守ってくれない」のような論旨にスライドしていく。

 後者の批判だけを見れば「勝手に付いてきたくせに」「ヨハン捜索が目的なんだからそれはそうだ」という話にもなる。

 しかし、元々の不満を思えば、異世界に来た彼らは「十代と一緒に命懸けで闘いたかった」のではないか。十代と2年半もの間共に困難を乗り越えてきた自負が本校生組にはあったのだ。にも関わらず、十代は一人生死を背負って闘い、仲間には「手を出すな」と牽制する。それが十代と肩を並べて闘う気で共に異世界まで来た本校生組の自尊心を傷付け、対等な信頼関係を揺るがせてしまった。

「守ってくれない」といった不満はその「対等な関係の揺らぎ」により生まれているとも考えられる。彼らは十代の後塵を拝していることを肌で感じてしまった――さすれば、という不満だったのではないか。

 

 我々視聴者は十代が「主人公」であることを知って見ているが、作中の彼らはそうではない。皆が皆、おのれが「主人公」である物語を生きたかったのだ。それが本校生組にとっての異世界編での『試練』であり、それは4期のそれぞれのエピソードに持ち越されている。

 

 

曖昧な善悪

 キャラの見解や立場に是も非もないのではないか…という話をしたが、主人公である十代が「覇王」というダークサイドに堕ちたのをきっかけに、作中で表現される「善悪」の価値観も次第に曖昧になっていく。

 2期から登場する「破滅の光」「正しき闇の力」=「光が悪で闇が正義」という、従来のイメージを反転した設定(と書くとちょっと安易だが、おそらく「闇遊戯」が主人公だった前作のオマージュ的な部分もある)からもうかがえるようなアンチ勧善懲悪のイズムが多々垣間見れるのも3期である。

 メタ的な余談だが、GXのこういったアンチ勧善懲悪・ヒロイズムへの問題提起・正義と悪を二分しない物語の要素は「昭和の王道」の反転であり、平成作品の一大ブームの一つであるように思う。ゼロ年代の遺産としても興味深い。

 

エドが「善」でアモンは「悪」?―エド戦の役割

  エドvsアモン(144-145話)ばかり見返していると、アモンはエコーの命と引き換えにエクゾディアという強大な力を得ようとするだけのいわゆる「悪役」でしかない。自省せざるを得ないが、私にとっての彼のイメージも長い間そうだった。

 しかし、あたかも彼のかねてよりの野望かのように描かれる「異世界の王になる」という目的は元来「エコーの野望」である。アモンはかつて弟・シドを手にかけようとした過去はあるものの、その闇から抜け出した後は弟とガラム財閥のために心を砕く姿が描かれている。

 再度十代たちの前に現れたアモンの言動は、破滅の光(ユベル)の力が彼に干渉した結果だろう。彼は力を欲してエコーを生贄へと誘い、それがエドの逆鱗に触れ対戦が始まる。

 

 この回のエド、かつてないほど怒っているわりにあまり具体的な心理描写がないので何もかも推測の域は出ないのだが、まず一つはアモンにDDを重ねて激昂していると私は考えている。DDもかつてBloo-Dに多くの人間の命を吸わせ、その力に溺れていた。彼は父の仇の「悪」を許してはない。

 次いで目の前で女性が暴力に曝されいる(と彼は認識している)ことへの怒りだろう。ダークヒーローとしての振る舞いのイメージも強いが、彼は常におのれの「正義」を信じている(2期では彼の懲罰的な一面が描かれているシーンもある)。同時にアモンとエコーの関係性への「不理解」の表現にもなっている。

 そしてアモンが「覇王」を映す鏡であることの否定である。十代は他人の犠牲の上に力を得ようとする彼に「あいつはオレだ」という言葉を漏らす。傷心の十代の回復とヨハン捜索の達成を望むエドにとってその「=(イコール)」はあってはならないものである。

 

  しかし、アモンの望みは争いや格差、貧困のない平和な世界の構築であることが後のユベルvsアモンの中で明かされる。その願い自体は「善性」そのものと言っても過言ではない(ユベルも彼の中に心の闇を見つけることができなかった)。

 「だから人の命を生贄にしてOK」ということは決してないが、人々を犠牲に君臨した覇王が十代として立ち直り、もう一度「正義」の道を歩めるのなら、アモンもエコーの犠牲の上で「正義」の道も歩めるということになるのではないか。二分できる善も悪もはここには無いのではないか。

 

 一方エドは、自ら生贄になることをよしとするエコーに向かって何度も「不理解」を示す。それは「自分は犠牲になるわけではない」と彼の十代に向けた言葉の通り、彼女とおのれを差異化する意識の表れである。それと同時に、彼が仲間のために命をなげうつことができることへの逆説的な描写への「フリ」でもある。こちらもまた、ここでは立場を分かつことができない。

 

 アモンは十代(覇王)である。アモンは十代ではない。

 エコーはエドである。エコーはエドではない。

  この闘いはさまざまな対比の揺らぎが織り込まれている。誰かであるようで誰かではない。

 異世界編冒頭のエドとヘルカイザーの会話のどちらに是も非も置かれていないと感じたように、この闘いにおいてエドが「是」(善)・アモンが「否」(悪)であるかと言われればそうではないと考えている。

 二分化できる善悪などそう転がってはいない。それでも己の「正義」を信じるしかないのだ。その体現がこの闘いであり、「僕が犠牲になったなんて思うなよ」というエドの最後の言葉であり、「ヒーロー」を描き続けたGXの物語の一つの回答であるように思う。

 

ユベルと十代―「征伐」でも「犠牲」でもない結末

 十代はヘルカイザーとヨハン(ユベル)の闘いを目の当たりにし、もう一度力を振るう勇気を取り戻す。そうして向かったユベルとの決戦の最中、ヨハン消失や十代の覇王化に至るまで異世界編での出来事がユベルによる十代への「愛情表現」であったことが発覚する。

 闘いの中で前世での二人の関係も明らかになり、十代が選んだのは「超融合」にてユベルと自身の魂を一つにすることだった。自分が自分でなくなることも厭わない十代の選択に胸打たれ、ユベルは十代と共に破滅の光と闘っていくことを誓う。

 様々な出来事の元凶であったユベルも「悪役」として征伐されることはなく、十代の半身となった。善悪を二分しないどころか、文字通り融合したのである。

 

 ユベルと超融合する直前、十代は翔に向かって「犠牲になるわけじゃない」と口にする。十代が出した答えの一つが自己犠牲精神の否定だ。そしてそれはエドがアモン戦の後、消失の直前に十代に向けたものと同じ言葉である。

 ジムとオブライエンは覇王から彼を救ったように、三沢とヘルカイザーが彼を奮い立たせたように、エドの信じた正義が彼の出した答えにもなっている。

 是も非もない、善も悪もない、それがGXの世界観・価値観なのではないか…そういった話をしてきたが、それでもキャラクターが選び取る「正義」と「信念」がある。その選択に彼らの物語や関係性が描き込まれている。

 

 

だから無秩序?

 「是も非もない、善も悪もない、それがGXの世界観・価値観なのではないか」と書いたが、かといって無秩序な世界であるという意味ではない。デュエルに勝敗があるように、誰かの野望や信念が敗れ散ることもある。「正義」や「善」の“本質”を持たないというだけで、都度形を変えて存在し続けている。ただしそこには常に懐疑的な眼差しがある――それがGXの作風ということだ。

 

 (先述のエピソードだが)それでも異世界編の終盤に十代の想いとエドが彼に向けた言葉が重なったことが嬉しかった。

 それはアンチヒロイズム・アンチ勧善懲悪による「善性」の安易な反転や混濁を望まないからだ。HEROを愛した二人が信ずる「正義」や「善」の心を物語に否定してほしくはなかったからだ。

 この世界の「正義」が絶対的なものではいからこそ、二人がそれぞれの「正義」を信じる描写が嬉しく思う。表裏一体の関係である。

 不確かだからこそ、強く信じてほしい。そしてそれが重なったとき、心強く感じる。それはHEROコンビ好きにとっての異世界編の終幕だ。

 

 まとめ

 以上が「誰のことも責めたくない、罰したくない」「そもそもそういう話じゃない」という思いで異世界編を見た感想文である。

 2期を始めそれまでの十代が仲間を想う描写が好きだったし、本校生組が十代と並び立ち闘ってきたことを知っている。「それだけではいられない」という試練なら視聴者の私も甘んじて受け入れるが、そこに希望と優しさはあってほしい。

 

 結果的にHEROコンビの話をそんなにしているのかと言われればしてない気もするのだが、十代に対し変化や成長を望まないまま肯定的な立場をとっているエドが私の見る異世界編のキーパーソンだ。

 異世界編を経て結果的に十代は「変わった」が、変わらなくてもいいと思っていた人が一人いたことは大きい。それは私が望んだ試練の中の「優しさ」だ。

  「様々なキャラの立場や見解を否定しない」というのは、私がGXという作品に寄せる信頼の一つである。

 

おわりに

  ここまで読んでくださってありがとうございました!

 留学生組と三沢とヘルカイザーの話も長く書きたかったのですが、いよいよ長すぎるのとちょっと脱線するので割愛してしまいました…機会があったらどこかで語りたいなと思います。ヨハンが十代の『半身』である話とかね…留学生組のヒロイズムとかね…

 あと長くなるので今回は「本校生組」でくくっちゃったんですけど、万丈目や明日香たちも各々事情も心情も違うはずなので、その辺もいつかどこかで……

 

 ずっとGXの記事ですがそのうち他シリーズの感想も書けたらいいな~