みかみかみかみ

おたくの雑記用ブログ

遊戯王VRAINSを見てほしい理由が3つある

 

はじめに

遊戯王VRAINSとは…

 NAS製作の遊戯王アニメシリーズ6作品目。全120話。

 主人公・藤木遊作が幼少期に遭った「ロスト事件」の真相を求め、その手掛かりとなり得るデュエリスト集団・ハノイの騎士たちとバーチャル空間「LINK VRAINS」にて闘う中、意思をもつ人工知能(「イグニス」の一人。後にAiと命名)と遭遇し物語が始まる。

 

 放送が終わって時間も経つ作品だが、できれば色んな人に見てほしい…というオススメのていをとりたいので核心的なネタバレはしない。

 また、文中アバター名と本名の表記が混在しており、多少読みづらいかもしれないが、何卒ご容赦いただきたく思う。

 

 

VRAINSの魅力①ストーリーの一貫性

堅実な2本柱

 遊戯王VRAINS(以下VRAINS)の本筋は至ってシンプルである。全120話中、当初掲げられた物語の根幹でもある「ロスト事件」とその真相、そしてイグニスの存在に起因する「AIと人間の共生/対立」の問題提起。終始この2つのテーマに沿ってエピソードが展開される。

 遊戯王シリーズと言えば、途中で異世界に飛ばされたり、モンスターの精霊が出現したり、キャラクターの前世の回想が入ったり、異世界人・非人間であることが判明したり、シリーズの途中で世界観がガラリと変わることも珍しくない。それがダメ・良くないという意味ではもちろんないが、遊戯王ないし長期アニメの特殊性、要は癖(クセ)であることには違いない。

 

 VRAINSは前述の2つのテーマに腰を据えており、いわゆる超展開と呼ばれるような突飛な舵切りや路線変更はほぼない。それを「展開の波がない」「地味である」と言い換えることはできてしまうかもしれないが、私はそれを「見やすさ」と捉えている。120話もかけて向き合ったテーマは当然簡単ではなかったが、集中してキャラクターや作品に入り込むことができた。

 

 歴代シリーズファン向けの余談

 確立されたテーマにフックしなかった場合、その後興味を持つきっかけが掴みにくいということもあるかもしれない。しかし、過去シリーズのDM乃亜編で描かれた「人工知能・デジタルの生命」、ZEXALⅡで描かれた「異種族の対立」、これらの要素と通ずる物語でもあり、過去シリーズと併せて視聴しても新たな発見があるように思う。

 シリーズ構成の吉田氏を始め歴代シリーズの脚本・構成を多く手掛けた脚本家陣が再集結しているのもVRAINSの特徴である。

 

 

VRAINSの魅力②女性キャラの描写

  結論から書くと、これが自分にとってVRAINS最大の訴求力となった。

 

ヒロインが「他人」、財前葵

  「財前葵」の造形だけで1つ記事を書いてもいいと思うほど彼女の魅力は枚挙にいとまがない。

 まず好ましいと思った点は、物語における葵の立ち位置(相関図の座標)が主人公サイドと無関係なところから始まっていることだ。従来、いわゆる少年向けとされる漫画やホビー作品の「ヒロイン」とされる女性キャラは、男性主人公とその周辺の従属物(言わばオマケ)のような役割をもって登場しがちだった。(「主人公にとっての幼馴染」「主人公にとっての憧れの相手」等々…)

 もしくは、いつの間にか主人公パーティの一員としてまとめられ、個人の思惑が描かれなくなってしまう…ということもある。

 

 葵は登場以降、遊作(Playmaker)と接点は持ちつつも、葵は自身の目的のためにLINK VRAINSにログインし、闘い、行動を選択する。目的が重なれば行動を共にすることもあるが、別行動している時間がかなり長い。もう一人の主人公…と言ってしまうとさすがに過言なのだが、従来のいわゆる「ヒロイン」の役割とは一線を画していると言えるだろう。

 

別所エマとのシスターフッド

 作中、別所エマ(ゴーストガール)が闘う目的を尋ねられ「女の友情」と答えるシーンがある。ここでの「女の友情」とは葵、イグニスの一人であるアクア、そして葵の幼少期の友人・美優を含んでいる。

 

 葵は兄(財前晃)に認めてもらいたいという目的の完遂には今一歩至らないまま1期(ハノイの騎士編)を終え、2期(イグニス編)を迎えることとなる。

 葵はかつてのブルーエンジェルからブルーガールに姿を変え、晃から依頼を受けたトレジャーハンター・ゴーストガールに同行する。二人は以前も関わりがあり、1期ではまだまだ幼い葵を大人のエマが諭すようなエピソードだった。2期で行動を共にし始めた当初もエマは葵を足手まとい扱いしている。しかし、葵はエマの元で徐々に成長していく。エマも葵の正義感や意思に感化され、道中出会ったアクアも含め、女性たちの友情が描かれていった。

 

 彼女たちは主人公サイドとは別に独自のコミュニティを築き、彼女たち自身の目的で動き、闘う。「女だてらに」といった振りかぶりも気負いもなく、軽やかに女性たちの自立性が描かれている。

 こう書くと簡単なようだが、決してそうではない。

 女性同士の対立・二分化はしばしばミソジニーの表象であり、女性同士の友情・連帯の描写はそのカウンターとも言える。しかし、(制作陣の価値観や意識を一旦置いておいても)男性主人公作品、いわゆる少年向けとされるホビーアニメで、女性キャラだけの関係性描写に尺を割かれるのは珍しいことのように思う。

 一人の男性を巡って睨み合ったり、マスコットガールの座を取り合って小競り合いしたり、男性中心的に女性キャラが描かれる時代はきっと終わったのである。もちろん一進一退はあるだろうが、一歩進んだ表象を目撃できることをVRAINSの大きな魅力の一つとして挙げておきたい。

 

 

VRAINSの魅力③少年少女の成長譚

 先の節で「ロスト事件」「AIとの共生/対立」の2つのテーマの物語であると述べたが、それらと平行して描かれるのが遊作や葵、メインキャラたちの「成長」である。

 VRAINSのキャラクターの年齢層は歴代作品の中では年齢も高いほうで、主人公の遊作は性格も落ち着いていれば登場初期からデュエルの腕があり、PlaymakerとしてLINK VRAINSでの注目度も高く、英雄視されている描写も少なくない。葵も初登場時からブルーエンジェルとして「カリスマデュエリスト」の一人に数えられており、例えば当初ルールもおぼつかなかった遊馬や、作中でキャラクター性が大きく変わった十代の成長と比較して、どちらかと言えば「英雄譚」のように思われるかもしれない。

 しかし、私が思うVRAINSの物語は間違いなく「成長譚」だ。

 

 VRAINSの物語を通したキーワードとして「繋がり」がある。これはVRAINSで登場したOCGの特殊召喚方法「リンク召喚」にかけたフレーズでもあるのだが、遊作たちは物語の中で「繋がり」を実感していく。それはイグニスや関わる人間との繋がり、過去との繋がり、そして社会との繋がりなど、様々だ。

 そこには他者からの英雄視やデュエルの実力(言わば外的な要素)とは関係がないとも言え、自分自身が「何か(誰か)と繋がっていくため」の内面的な成長が描かれる。

 LINK VRAINSというバーチャル世界―いわば虚構の中で、彼らは他者と出会い対話し、絆を得て、また自分自身やおのれの過去と向き合い、前を向き生きていく。デジタルの世界では人間とAIの堺もないかもしれない。

 LINK VRAINSの世界のアバターは自己と対話するための鏡のようであり、なりたい自分の偶像のようであり、他者と繋がるためのツールのようでもある。

 

 逆を言えば、VRAINSの物語が否定するのは「繋がりを拒むこと」である。孤独に闘っていた遊作も、自分のことだけ考えていた葵も、過去から目を逸らしていた尊も、物語の中で変わっていった。終盤のリボルバーの成り行きもその価値観によるものであると思う。

 

 

 まとめと余談

  ネタバレを避けての感想だったので多少フワッとしてしまった部分はあるのだが、未視聴の方には興味を持っていただけたら喜ばしく思う。視聴済の方には少しでも共感いただけるポイントがあれば嬉しい。

 

 VRAINSは放送時間の変更やルール改定によるOCGの複雑化、ついでに私生活の変化など様々な理由が重なり全編のほとんどをリアルタイム視聴できなかった数少ない遊戯王シリーズになってしまったが、それに関しては今もなお後悔している。

  しかし、「リアルタイムで追っていた人ほど苦悩している」という話がまことしやかに囁かれているのもVRAINSである。それは吉田氏の構成シリーズは情報の開示が後半に偏りがちで、序盤~中盤の足踏みが長いことに起因しているのではないかと思っているのだが、いかんせんリアルタイム視聴ではないため勝手な想像に過ぎない。いずれにせよリアルタイム視聴は帰ってこないのである(切々たる後悔)。

 理由はどうあれ「打ち切り」の話もよく耳にするが、「もう少し長く見たかった」というファン感情はあれど、物語自体に尻切れトンボなところは一切感じられず、よくまとまっていると思う。

 

 リンク召喚の性質上デュエルが単調なわりに難解(エースを出すまでのソリティアが長め)…というなんとも難儀な状態に陥りがちなのはどうしても否めないのだが、途中からサーキット出現バンクを省略したりと演出の試行錯誤も見て取れる。また、デュエル構成の彦久保氏が脚本を手掛けた詰めデュエル回のような、リンク召喚の複雑さを逆手にとったようなエピソードも面白い。

 

 遊戯王VRAINSは総じて真面目で、堅実な作品だ。もちろん取りこぼしがないとか完璧だということではないのだが、それらを語らう余地も含めて十二分に魅力的なシリーズだった。

120話と短いので(?)機会があれば是非!

HEROコンビ好きのGX3期・異世界編

 前回の更新からすごい間が空いてしまいました…

 数回目にして不定期極まってるブログですがTwitter上でご感想いただく機会もあり本当に嬉しいです!

 

 最近はVRAINSを見たり5D's見返したりとちょっとシリーズ跨いでフラフラしてました。世界観も作風も違うのに遊戯王シリーズは共通して不思議な魅力がありますね…

 しかし今回もGXの感想記事になります。

 まだまだ書くことある、すごい。笑

 

◆◆◆

 

HEROコンビ好きのGX3期・異世界

 

はじめに

 今までの記事同様、HEROコンビ(十代とエド)ファンから見たただの感想文である。客観的・論理的な考察とかそういう要素はまったく無く、もはやエッセイとかに近い。

私に見えるGX3期という景色を少しでもお伝えできればうれしい。

  

異世界編』の定義

 マルタンユベル)戦の後、十代たちが一度デュエルアカデミアに帰還してから(131話)ヨハン捜索のためにもう一度異世界に旅立ち、ユベルと超融合しアカデミアに再度帰還するまで(156話)をこの記事では『異世界編』と呼ぶ。

 120話~130話も十代たちは異世界にいるのだが、そちらは『漂流教室編』と呼んでいる。(なお別作品になぞらえた呼び方なので正式な呼称でもなんでもない)

 

それぞれの用語

 ・本校生組…万丈目、明日香、吹雪、剣山、翔のこと

 ・留学生組…ヨハン、ジム、オブライエン、アモンのこと

 

 過去記事に倣って大まかなあらすじを書こうとも思ったが、あまりにも難しく断念してしまった。申し訳ない。今回こそ完全に「GXおたく」向けである。 

 

誰のことも責めたくない異世界

  『異世界編』放送時、「誰が悪い」「(本校生組と十代の)どっちが悪い」という議論が激化していた。その後もGXを見る人が居れば常に絶え間のない議論であるようにも思う。

 しかし、GXが成長の道半ばにある登場人物に対して断罪的な態度をとる作品だとは私は考えていないし、感情的なことを言えば愛するキャラクターたちを誰も責めたくないのだ。HEROコンビ好きだから特にそう思う…というわけではないのだが、どうしても話題が二人に偏ってしまうのでこのタイトルで記事を作成している。

 

 皆が皆課題を抱え、壁にぶつかっている。異世界編は『裁判』ではない。彼らにとって『試練』の一つである。そう思えるエピソードに触れていきたい。

 

 十代が「悪い」のか?―エドとヘルカイザーの会話

  ヨハン捜索のために再度異世界へ旅立つ直前(131話)、エドとヘルカイザーが十代について語るシーンがある。

ヘルカイザー「まだ奴には分かっていない。自分の行動の結果に責任が生まれることを」

エド「いや、分かっているからこそ、自らの手でヨハンを助けようとしているんじゃないのか」

 

 エドとヘルカイザーは異世界でも行動を共にし、物語のガイド的な―ナレーションめいたセリフを口にするシーンが多々ある。しかし、言うまでもなく彼らの役割はナレーションではない。十代との関係性をそれぞれに持った一人の登場人物であり、彼らの発言は彼ら自身の見解だ。

 1期終盤(51-52話)しかり、亮は十代への「期待値」が非常に高いキャラクターとして描かれている。常に十代の成長を望み、現状の彼では満足しない。それがヘルカイザーになっても変わっていないという表れである。

 一方エドは、ネオスを得た十代との再戦でヒーローにワクワクしていた幼少期の気持ちを取り戻し、その闘いにより十代のデッキ・デュエルを認めている。その経験が「子供としての十代」を肯定する見解に繋がっていると言えるだろう。

 

 先述の会話にはヘルカイザーの「お前もまだまだ子供だな」というセリフが続く。「子供から大人になる」というテーマが掲げられている異世界編にとって彼の発言が物語の主旨として『是』であることに違いはない。

 かといって、エドの発言が『否』であると描くための会話ではない、というのが私の見方である。「子供の頃の気持ちを忘れない」こと、子供であることをよしとするのが2期(ネオスやネオスペーシアンとの出会い、エドとの再戦など)で描いたテーマの一つだったからだ。

 しかし「それだけではいられない」のがGXの物語である。

 亮がヘルカイザーに転身したことをGXの物語は否定しなかったが、その後それだけではいられなかったように、十代も「子供」であることが「悪い」わけではなく「それだけではいられない」のである。それが異世界編の十代にとっての『試練』である。

 

 

本校生組が「悪い」のか?―邪心経典の元を辿る

  「邪心経典」にて「超融合」のカードを生み出すために仲間たちがデュエルの中で生贄に捧げられ、十代への恨み言と共に消滅していく。十代が「覇王化」するきっかけにもなった、いわゆる「鬱展開」として有名なエピソードである。

 外的要因(「怒」「悲」「疑」「憎」「苦」の感情をそれぞれ増幅させているらしき玉のようなもの)を印象付ける演出はされているものの、本校生組の十代への不満は異世界編開始直後からじわじわと描かれた。

 異世界に到着するやいなや、十代はヨハン捜索に焦るあまり単独行動に走る・合流まで待っている約束を反故にするなど、仲間たちの不満要素となる行動を多々とっている。それにより、「仕方ない」「付いて行くしかない」という言葉が徐々に「自分たち(仲間)のことを考えていない」「独りよがりだ」という批判に変わっていく。もちろん十代に付いて異世界に来たのは彼らの意思だが、「思ったのと違った」ことに間違いはない。

 

 まず、本校生組の十代への不満の元を辿れば「デュエルに敗北すれば命を落とすことを十代は知っていたにも関わらず、一人で闘おうとしていること」だった。

  その後、彼らの不満は「十代はヨハンのことばかりで自分たちのことを顧みない」「守ってくれない」のような論旨にスライドしていく。

 後者の批判だけを見れば「勝手に付いてきたくせに」「ヨハン捜索が目的なんだからそれはそうだ」という話にもなる。

 しかし、元々の不満を思えば、異世界に来た彼らは「十代と一緒に命懸けで闘いたかった」のではないか。十代と2年半もの間共に困難を乗り越えてきた自負が本校生組にはあったのだ。にも関わらず、十代は一人生死を背負って闘い、仲間には「手を出すな」と牽制する。それが十代と肩を並べて闘う気で共に異世界まで来た本校生組の自尊心を傷付け、対等な信頼関係を揺るがせてしまった。

「守ってくれない」といった不満はその「対等な関係の揺らぎ」により生まれているとも考えられる。彼らは十代の後塵を拝していることを肌で感じてしまった――さすれば、という不満だったのではないか。

 

 我々視聴者は十代が「主人公」であることを知って見ているが、作中の彼らはそうではない。皆が皆、おのれが「主人公」である物語を生きたかったのだ。それが本校生組にとっての異世界編での『試練』であり、それは4期のそれぞれのエピソードに持ち越されている。

 

 

曖昧な善悪

 キャラの見解や立場に是も非もないのではないか…という話をしたが、主人公である十代が「覇王」というダークサイドに堕ちたのをきっかけに、作中で表現される「善悪」の価値観も次第に曖昧になっていく。

 2期から登場する「破滅の光」「正しき闇の力」=「光が悪で闇が正義」という、従来のイメージを反転した設定(と書くとちょっと安易だが、おそらく「闇遊戯」が主人公だった前作のオマージュ的な部分もある)からもうかがえるようなアンチ勧善懲悪のイズムが多々垣間見れるのも3期である。

 メタ的な余談だが、GXのこういったアンチ勧善懲悪・ヒロイズムへの問題提起・正義と悪を二分しない物語の要素は「昭和の王道」の反転であり、平成作品の一大ブームの一つであるように思う。ゼロ年代の遺産としても興味深い。

 

エドが「善」でアモンは「悪」?―エド戦の役割

  エドvsアモン(144-145話)ばかり見返していると、アモンはエコーの命と引き換えにエクゾディアという強大な力を得ようとするだけのいわゆる「悪役」でしかない。自省せざるを得ないが、私にとっての彼のイメージも長い間そうだった。

 しかし、あたかも彼のかねてよりの野望かのように描かれる「異世界の王になる」という目的は元来「エコーの野望」である。アモンはかつて弟・シドを手にかけようとした過去はあるものの、その闇から抜け出した後は弟とガラム財閥のために心を砕く姿が描かれている。

 再度十代たちの前に現れたアモンの言動は、破滅の光(ユベル)の力が彼に干渉した結果だろう。彼は力を欲してエコーを生贄へと誘い、それがエドの逆鱗に触れ対戦が始まる。

 

 この回のエド、かつてないほど怒っているわりにあまり具体的な心理描写がないので何もかも推測の域は出ないのだが、まず一つはアモンにDDを重ねて激昂していると私は考えている。DDもかつてBloo-Dに多くの人間の命を吸わせ、その力に溺れていた。彼は父の仇の「悪」を許してはない。

 次いで目の前で女性が暴力に曝されいる(と彼は認識している)ことへの怒りだろう。ダークヒーローとしての振る舞いのイメージも強いが、彼は常におのれの「正義」を信じている(2期では彼の懲罰的な一面が描かれているシーンもある)。同時にアモンとエコーの関係性への「不理解」の表現にもなっている。

 そしてアモンが「覇王」を映す鏡であることの否定である。十代は他人の犠牲の上に力を得ようとする彼に「あいつはオレだ」という言葉を漏らす。傷心の十代の回復とヨハン捜索の達成を望むエドにとってその「=(イコール)」はあってはならないものである。

 

  しかし、アモンの望みは争いや格差、貧困のない平和な世界の構築であることが後のユベルvsアモンの中で明かされる。その願い自体は「善性」そのものと言っても過言ではない(ユベルも彼の中に心の闇を見つけることができなかった)。

 「だから人の命を生贄にしてOK」ということは決してないが、人々を犠牲に君臨した覇王が十代として立ち直り、もう一度「正義」の道を歩めるのなら、アモンもエコーの犠牲の上で「正義」の道も歩めるということになるのではないか。二分できる善も悪もはここには無いのではないか。

 

 一方エドは、自ら生贄になることをよしとするエコーに向かって何度も「不理解」を示す。それは「自分は犠牲になるわけではない」と彼の十代に向けた言葉の通り、彼女とおのれを差異化する意識の表れである。それと同時に、彼が仲間のために命をなげうつことができることへの逆説的な描写への「フリ」でもある。こちらもまた、ここでは立場を分かつことができない。

 

 アモンは十代(覇王)である。アモンは十代ではない。

 エコーはエドである。エコーはエドではない。

  この闘いはさまざまな対比の揺らぎが織り込まれている。誰かであるようで誰かではない。

 異世界編冒頭のエドとヘルカイザーの会話のどちらに是も非も置かれていないと感じたように、この闘いにおいてエドが「是」(善)・アモンが「否」(悪)であるかと言われればそうではないと考えている。

 二分化できる善悪などそう転がってはいない。それでも己の「正義」を信じるしかないのだ。その体現がこの闘いであり、「僕が犠牲になったなんて思うなよ」というエドの最後の言葉であり、「ヒーロー」を描き続けたGXの物語の一つの回答であるように思う。

 

ユベルと十代―「征伐」でも「犠牲」でもない結末

 十代はヘルカイザーとヨハン(ユベル)の闘いを目の当たりにし、もう一度力を振るう勇気を取り戻す。そうして向かったユベルとの決戦の最中、ヨハン消失や十代の覇王化に至るまで異世界編での出来事がユベルによる十代への「愛情表現」であったことが発覚する。

 闘いの中で前世での二人の関係も明らかになり、十代が選んだのは「超融合」にてユベルと自身の魂を一つにすることだった。自分が自分でなくなることも厭わない十代の選択に胸打たれ、ユベルは十代と共に破滅の光と闘っていくことを誓う。

 様々な出来事の元凶であったユベルも「悪役」として征伐されることはなく、十代の半身となった。善悪を二分しないどころか、文字通り融合したのである。

 

 ユベルと超融合する直前、十代は翔に向かって「犠牲になるわけじゃない」と口にする。十代が出した答えの一つが自己犠牲精神の否定だ。そしてそれはエドがアモン戦の後、消失の直前に十代に向けたものと同じ言葉である。

 ジムとオブライエンは覇王から彼を救ったように、三沢とヘルカイザーが彼を奮い立たせたように、エドの信じた正義が彼の出した答えにもなっている。

 是も非もない、善も悪もない、それがGXの世界観・価値観なのではないか…そういった話をしてきたが、それでもキャラクターが選び取る「正義」と「信念」がある。その選択に彼らの物語や関係性が描き込まれている。

 

 

だから無秩序?

 「是も非もない、善も悪もない、それがGXの世界観・価値観なのではないか」と書いたが、かといって無秩序な世界であるという意味ではない。デュエルに勝敗があるように、誰かの野望や信念が敗れ散ることもある。「正義」や「善」の“本質”を持たないというだけで、都度形を変えて存在し続けている。ただしそこには常に懐疑的な眼差しがある――それがGXの作風ということだ。

 

 (先述のエピソードだが)それでも異世界編の終盤に十代の想いとエドが彼に向けた言葉が重なったことが嬉しかった。

 それはアンチヒロイズム・アンチ勧善懲悪による「善性」の安易な反転や混濁を望まないからだ。HEROを愛した二人が信ずる「正義」や「善」の心を物語に否定してほしくはなかったからだ。

 この世界の「正義」が絶対的なものではいからこそ、二人がそれぞれの「正義」を信じる描写が嬉しく思う。表裏一体の関係である。

 不確かだからこそ、強く信じてほしい。そしてそれが重なったとき、心強く感じる。それはHEROコンビ好きにとっての異世界編の終幕だ。

 

 まとめ

 以上が「誰のことも責めたくない、罰したくない」「そもそもそういう話じゃない」という思いで異世界編を見た感想文である。

 2期を始めそれまでの十代が仲間を想う描写が好きだったし、本校生組が十代と並び立ち闘ってきたことを知っている。「それだけではいられない」という試練なら視聴者の私も甘んじて受け入れるが、そこに希望と優しさはあってほしい。

 

 結果的にHEROコンビの話をそんなにしているのかと言われればしてない気もするのだが、十代に対し変化や成長を望まないまま肯定的な立場をとっているエドが私の見る異世界編のキーパーソンだ。

 異世界編を経て結果的に十代は「変わった」が、変わらなくてもいいと思っていた人が一人いたことは大きい。それは私が望んだ試練の中の「優しさ」だ。

  「様々なキャラの立場や見解を否定しない」というのは、私がGXという作品に寄せる信頼の一つである。

 

おわりに

  ここまで読んでくださってありがとうございました!

 留学生組と三沢とヘルカイザーの話も長く書きたかったのですが、いよいよ長すぎるのとちょっと脱線するので割愛してしまいました…機会があったらどこかで語りたいなと思います。ヨハンが十代の『半身』である話とかね…留学生組のヒロイズムとかね…

 あと長くなるので今回は「本校生組」でくくっちゃったんですけど、万丈目や明日香たちも各々事情も心情も違うはずなので、その辺もいつかどこかで……

 

 ずっとGXの記事ですがそのうち他シリーズの感想も書けたらいいな~

HEROコンビ好きから万丈目サンダーに愛を込めて

 前回の記事が100PVを超えていました。Twitterでもご反応いただいたり皆さんのGXのお話のタネにしてくださって嬉しかったです。ありがとうございます。

 GXの感想ブログが流行ったらいいなぁ。(ずっと言ってる)

 

 二つ目となる今回も引き続きHEROコンビおたく目線ではありますが、中心に万丈目サンダーを据えたタイトル通りの内容になります。

 本当は8/1に上げたかった…!誕生日おめでとうサンダー!

 

◆◆◆

 

 前回も作中の「オカルト」要素側にいる十代、「ビジネス」要素側にいるエド、その丁度「真ん中」にいる万丈目として三人の位置関係について触れたが、今回はキャラの心情や関係性に寄った話を書いていきたい。

 

HEROコンビ好きから万丈目サンダーに愛を込めて

 

 

はじめに

 前回GX未視聴の方にも記事を閲覧していただいたと知り後悔したので、少しだけ詳しく解説する。GXファンの方はサクっと読み飛ばしてほしいが、未視聴の方が読んでも面白く書ける自信はないのでご容赦いただきたいと思う。

 遊城十代エド・フェニックス(HEROコンビ)に関しては前回の記事を参照。(というか、はてブロさんは用語紹介ページのリンクを多くの固有名詞に自動で貼ってくれているので実は解説が不要説もある…身も蓋もない…)

 

万丈目準とは…

 デュエルアカデミア高等部に中等部からトップで進学したエリートとして登場する。敗北をきっかけに一度自らアカデミアを去るが、単身乗り込んだ他校・ノース校を降し復活。その際「万丈目”さん”だ!」と敬称を促す彼のセリフから派生した「万丈目サンダー」という愛称が生まれる。

 その後も様々な試練や苦難を経験することになるが、持ち前のデュエルの才能や物語中で培った精神力で乗り越えていく。

 使用するデッキタイプは多種多様だが、主力のテーマとしては「VWXYZ(ユニオン)」「アームドドラゴン」に加えて、ノース校に流れ着いた際出会った精霊「おジャマイエロー」を含む「おジャマ」が挙げられる。

 

HEROコンビそれぞれとの関係性…

 十代のライバルの一人。度々対戦の機会がある。

 エドに付き人として弟子入りし、プロとして進路が決まるきっかけとなった。

 (あまりにもざっくり)

 

 魅力的なエピソードが非常に多いキャラクターだが、その中でHEROコンビと関わりのあるものを挙げながら、3人の作中での役割・関係性の描かれ方について触れていきたい。

 

 

“敗北”の共有—十代と万丈目

 第2期序盤で十代はエドに敗北し、エドのデッキに込められていた斎王の力によってカードが見えなくなり、かつてないほど意気消沈する。万丈目の焚きつけるような「オレは這い上がってきたぞ!」という言葉も、悄然の十代には届かなかった。

 そして学園から十代は一時的に姿を消してしまう。十代不在の最中、今度は万丈目が斎王に敗北を喫する。万丈目は斎王の力によってマインドコントロールされ、斎王の配下となり「光の結社」に下ることとなった。

 主人公が敗北で消沈している裏側でライバルキャラクターも敗れ洗脳に遭うという、表裏一体のシナリオが2期らしい。さながらカードの裏表、タロットの正位置と逆位置のようである。

 

 その後、十代が斎王の力によりマインドコントロールを受けた万丈目(ホワイト万丈目)を正気に戻す闘いに臨む中、自身がエドに敗北したときの回想とともに心境が語られている。

 「どんなに楽しくデュエルをやったってさ、負けたら悔しいしつらくもなる」

 「友達はそんな思いしてたのにオレは気づかなかった、そんな自分にムカついているのさ!」

 十代の万丈目への語り掛けは、斎王による「倒したい対象であるはずの十代と馴れ合っている」という万丈目への指摘をそのままなぞるような発言とも解釈でき、必ずしも正確なピントで万丈目の心境を理解しているとは言えないかもしれない(それが二人のコミュニケーションの魅力であるとも思う)が、エド戦により「敗北」を知った十代の「共感」の力の成長を感じられるシーンである。

 

 物語序盤の1年目から、十代は何度か敗北している。しかし、カイザー戦にしろカイバーマン戦にしろ「強敵との出会いは楽しい」「負けを恐れない」といった比較的ポジティブな意味合いの敗北であった。

 一方、万丈目は1年目の序盤で十代や三沢との闘いで敗北の辛酸を多々舐めている。学園を去り、一人海を漂いながら「勝ちゃ楽しいだろう」と悪態をついたりもしていた。「何がゲロッパだ」。

 ノース校から帰還した万丈目との闘いの中で、十代は彼が課せられている勝利へのプレッシャーを知ることになる。時に手段さえも選ばなかった万丈目の、勝利への執着の一端が裏付けられるエピソードだ。十代は次なる闘いでそのしがらみの解消を望み、重圧と闘った万丈目を称えフォローするが、敗北した万丈目本人によりその言葉は遮られてしまう。

 

 十代のエド戦での敗北は、そんな二人の関係性がまた一つ厚みを増す心の交流のきっかけのように思う。前回の記事とも重なる部分はあるが、十代が関わった人々に変化をもたらすだけでなく、「十代自身も人との出会いで変わっていく」エピソードの一つと言えるだろう。

 エドは十代とのデュエルでかつての自分のHEROへの想いを思い出す。十代はエドとの闘いで真の敗北を知り、新しいデッキを得るだけではなく、その痛みから共感の力を育み、仲間(万丈目)への想いへと還元している。

 

 そして、斎王の洗脳が解け正気に戻った万丈目は、斎王から与えられたカードを破壊することで自らのライフポイントをゼロにし、デュエルの幕を下ろすこととなる。

 このときデュエルを観戦していたエドが「どうしても倒さなきゃならないモンスターがいる…その気持ち、僕には分かるがね」と、父の命を奪った“究極のD”を倒す決意を示唆しながら、万丈目への共感を示している。一見自滅にも見える万丈目の選択の気高さを強調するとともに、後の4期で深い関わりを持つ二人であることを思っても印象的なセリフとなっている。

 

 十代と万丈目、そして当時は接点らしい接点のなかったエドと万丈目が「共感」というキーワードで呼応する。この闘いの中で、十代・万丈目・エドの3人が関わる過去・未来のエピソードを巧みに繋げているのだ。

 

 

「出会い」の集大成—万丈目とエド

  波乱の異世界編を経ての第4期、いわゆる「万丈目就活回」において二人の関わりが一つのエピソードとして描かれる。

 プロデュエリストへの就職活動に難航した万丈目は、付き人としてエドに弟子入りし、エドのプロデュエリストとしての努力・覚悟を学ぶ。そんな中、スポンサーである千里眼グループの社員・マイクの“最後のD”のカード窃盗によりエドは一度引退を強いられるが、十代の助力もあって事件は無事解決。“最後のD”はエドの元に戻り、万丈目はエドと正々堂々闘い見事勝利をおさめた。

 

 万丈目とエドにとってGXの物語最後のメイン回。言わばそれぞれの集大成とも言えるエピソードだ。二人のデュエリストとしての実力が発揮されているのはもちろんのこと、この回には何より、彼らのデュエルアカデミアでの「出会い」の意味が詰まっている。

 

 闘いの直前、万丈目は十代に「お前にしか頼めない」と、マイクに盗まれた“最後のD”の奪還を依頼する。エドはもちろんそのことを知らず、マイクの脅しのままデュエルに臨んでいた。

 当初は年下であるエドの付き人になるのも渋っていたプライドの高い万丈目が、(責任を感じているとはいえ)エドを助けるために、宿敵・十代に頭を下げるのは彼の心境の変化そのものだろう。エドのことを認め、異世界編以降少し疎遠に感じられた十代との絆を再確認するようなシーンにもなっている。

 それはエドにとってもそうである。登場からいわゆる「はぐれ」的なポジションで単独行動が多い彼は、誰かを助けようとするシーンはあっても、誰かから実際的なピンチを助けられるのはこの万丈目とのエピソードが初なのだ。プロである彼がこの学園に来た意味が、彼にとってのクライマックスで一つささやかに花開いている。

 

 そしてやはり、彼らの「出会い」の中心には十代の存在がある。

 奪還に成功した十代から手渡され、エドが召喚する“最後のD”―即ちDragoon D-END―は、(厳密にはHEROの名を冠してはいないものの)D-HEROで最初の融合モンスターである。そして「融合」は、物語を通して「遊城十代の“力”の象徴」として描かれているカードだ。彼との出会いによって得た力が“最後のD”となって具現化し、エドのフィールドに君臨する。

 そして迎え撃つのは万丈目のアームドドラゴンLv.10。想像の域は出ないが、D-ENDがHEROの代わりに「Dragoon」を冠しているのは、この共に攻撃力3000の「ドラゴン」の対決を表現するためではないかと考えている。(D-ENDは戦士族なので名前だけの「ドラゴン」ではあるが…)

 GXは前作『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』へのリスペクトが特に強いシリーズである。それに倣い攻撃力3000のドラゴンを操る姿が“ライバル”の表現であるなら、ここでの万丈目とエドの闘いの中心には、主人公―十代―の存在があるに違いない。

 

 しかし勝負を決めるのは「プライド・シャウト」で攻撃力を得た万丈目の「おジャマイエロー」である。彼は彼だけの道を征く。それもまたGXらしい決着と言える。

 そしてダメ押しの如く「今日の最強カード」の紹介ではD-ENDの紹介に「おジャマイエロー」が割って入る。その際の万丈目のセリフは「HEROデッキなどに負けはしない!」。万丈目にとって、十代に勝利経験のあるエドとのデュエルは、疑似的に十代との闘いであったかもしれない。本編中のデュエルで万丈目が十代に勝利したことは無かったが、今なら分からない…そんな表現と捉えることもできる。

 エドの覚悟と万丈目の成長を描いたこのエピソードは、十代の存在を介して対等な「ライバル」として対を成した二人の、それぞれの十代との出会いの意味を物語っている。

 

 余談だが、先で語った2期の十代vs白万丈目ではおジャマたちへの「エース」呼びは「なんか気持ち悪くないか?」と茶化されるギャグ描写だった。それが物語の最後、「本当のエース」としてフィニッシャーになっている。この闘いで万丈目のおジャマたちとの出会いもまた昇華されているのだ。

 

 

二人に無かったもの―HEROコンビと万丈目

 「万丈目就活回」の別アングル、HEROコンビから見る万丈目の話をしたい。

 4期、異世界編で仲間を巻き込んだ責任を感じている十代は、仲間たちを避けて行動することが多くなっている。ミスターTとの闘いの後に若干の「雪解け」の描写はあるものの、その後世界に迫る脅威の中、十代が積極的に仲間を頼るシーンは多くない。

 エドも言うまでもなく、一人で闘うこと・一人で生きていくことに慣れてるような生い立ちと性格である。デュエルの特訓も明らかに思い詰めすぎだ。なんせ血が滴っている。

 

 先にも書いた通り、この回で万丈目は十代を頼り、エドを助けるのだ。

 一人で闘うことに若干躍起になっているとも言える当時の二人には決してできなかった選択であるように思う。

 実際エドはマイクの脅しのままデュエルを受けており、その後どうするつもりだったのか謎である。ややもするとそのままプロを引退していたかもしれない。

 

 「万丈目は立派なスターさ!」十代は言う。仲間として、ライバルとして、彼の実力を認め評しているのはもちろん、彼の精神力―泥臭さやド根性、人を頼れる強さ―は十代の瞳にさぞ鮮やかに映ったのではないか。

 そしてそれはエドにとっても同じであるように思う。この困難は彼一人では越えられなかった。彼が一度受けた恩は忘れないタイプなのは間違いなく、きっとこの経験は彼にとってかけがえのないものである。

 

 「HEROコンビ」と呼んでいる所以として、十代とエドが彼らの中にいるそれぞれの「ヒーロー」に憧れ指標にしている、という共通のキャラクター解釈がある。

 それらは異なる姿をしており、異なる信念、異なる概念であるが、おそらくどちらも「かっこつけ」だ。十代もエドも十二分に挫折を知っているが、彼らが指標にする「ヒーロー」はきっと挫折を知らない。這い上がり方を知らない。

  しかし彼らは万丈目の姿にそれを見たのではないだろうか。万丈目が持つオリジナルの強さは、彼らが持たざる強さだったはずだ。そこには彼への尊敬もあり、異世界での傷が未だ癒えきらない彼らにとっての光もあったのではないか。

 万丈目とエドの間に十代がいたように、十代とエドの間にも万丈目がいる…そのようなエピソードだったと考えている。 

 

 

 まとめ

 回を重ねるごとに成長していく多彩なキャラクターたちと、多角的な相関図はGXの大きな魅力である。十代・万丈目・エドの3人が絡むエピソードはその一例であると言えるだろう。三者三様の強さや魅力をそれぞれが際立たせている。

 

 

おわりに

 ここまで読んでくださってありがとうございました。存外長くなってしまった…!

  前回とはまた記事の毛色が違うのと、何より万丈目の話を書くにあたってめちゃくちゃ緊張してまして、途中何度か書き直しています。緊張のあまり予防線を張りすぎてしまい、鬱陶しかったので全部消したりとか…笑

 強いて何かを名乗るなら「HEROコンビ好き」の私ではありますが、そこから溢れる万丈目サンダーへの愛!!!が少しでも伝わっていたら嬉しいです。

 

 ここぞとばかりに雑談しちゃうんですが、万丈目ってメインキャラとしては珍しく使用デッキは既存テーマが多かったんですよね。(もちろん新規カードでの強化はありつつ)

 当時もアニメオリジナルテーマがアニメに登場→OCG化の流れがほとんどだったので、知ってるカード使ってくれるのが面白かった記憶があります。そういうデュエル面での感情移入のしやすさも人気も一因かもしれませんね。使用デッキが多いのもOCGプレイヤーっぽい。all攻撃力ゼロデッキで勝つvs長作兄さん回とか大好きです。

 

 今回はHEROコンビが絡むエピソードだけでこの文量だったので、サンダーに関して書きたいこと全部書いたら大変なことになりそうです…。

 

次回の内容は未定ですが、またGXの感想記事など書けたらいいな~と思ってます!

そしてGX感想ブログが流行ってほしい!

HEROコンビ越しに見えるGX

 遊☆戯☆王デュエルモンスターズGX(以下GX)がどうにも好きなので、これを機に感想ブログを書こうと思い立ちブログを作ってみました。

 未視聴の方に布教しようとか、自分の解釈の正当性(?)を証明したいとか、そういう意図は特に設けず、自分用の覚書程度の感じで書いていこうと思います。その中で「それそれ~」とか「わかる」とか思ってもらえたら嬉しいです。

(ブログが久々すぎて喋り方も掴めてない)

 

◆◆◆

 

 感想を書くと決めたものはいいもののGXは全180話、何かしらテーマを絞らねば散漫になってしまう…と数日悩み、やっぱりこれだろうと決めたのが第一回のテーマ(二回があるのかは不明)。

 

『HEROコンビ越しに見えるGX』

 

※HEROコンビとは…

遊城十代エド・フェニックスの使用デッキが共にHEROを冠していることに由来するコンビ名。非公式。おそらくリアルタイムのときには無かった呼び名なので、ファンの間の用語の変遷も面白いなぁと思う(脱線)

 

 二人のことはツイッター等でも再三話題にしてはいるが、今回は二人の関係性そのものというより、「二人の描かれ方から見えるGXの物語」の話を書いていきたい。

 

 

はじめに 

  今更キャラ紹介しても…という感じだが、自分の認識を提示するつもりで簡易的にキャラ解説。

 

遊城十代とは…

 主人公。カードの精霊と対話ができる。楽しいデュエルを信条としていたが、多くの試練や人々との出会いによりさまざまな価値観を知っていく。困っている人を放っておけないような人情もあるが、一方で個人主義・ドライな一面も。

 E・HEROデッキを使用する。

 

エド・フェニックスとは…

 放送2年目(2期)から登場する十代の後輩。最年少でプロテストに合格した「職業:プロデュエリスト」。自信家でやや傲慢な態度も見られるが、恩義のある人間に報いようとする義理堅さももっている。

 D-HEROデッキを使用する。

 

(認識の紹介と言ったわりに当たり障りないことしか書いてない)

 

 二人の作中での対戦は3回+タッグデュエルでの共闘が1回。エピソードのボリュームとして少なくないはずなのだが、そのわりに関係性が注目されることがそれほど多くない(気がする)。

 なので何を書いても「何を言っているんだ」と思われないか正直不安である。

 少しでも何かフックしたら嬉しい。すごく嬉しい。

 

 

人は他人を変えることができない話

 

 1話~52話までの1期、十代と関わることで変化していくキャラクターたちが多く描かれた。明日香曰く「十代と関わるとみんな変になっちゃう」。

 転じて2期、エドは十代に「お前の父さんがくれたD-HEROを復讐の道具に使うなんて…」と言われても父の仇への復讐は完遂しているし、「お前との闘い以来何か変なものが見えるんだ」というセリフはあるものの、万丈目のようにデュエルモンスターズの精霊が見えるようになるという描写はない(美寿知戦タッグデュエルの間に「(十代に向かって)何か見えるんだな」といった気配程度のものを感じているか否か…なセリフがあるのみで、おそらくその後も見えていないと仮定する)。

 それで「十代の影響力も大したことない」とか「自分を曲げないエドTUEEE」とか言いたいわけではもちろんない。むしろ、1期で印象的に描かれた「十代の影響力」が何たるかが補完され、「己の存在感をもって自分のペースに巻き込んでいった結果」ではなく「彼の周囲の人間がそれぞれが自ら道を選ぶための出会い」だったと振り返ることができる。

 平たく言ってしまえば、「十代に他人を変える力はない」と分かるのがエドとの関わりだ。しかし、十代と出会った人々は確かに変わっていく。それは彼と出会って選択の自由を知るからだ。さまざまな抑圧から解放され、諦めや絶望から前を向く術を知るからだ。

 もちろん逆もしかりで、十代もさまざまなキャラクターとの出会いによって変わっていく。それもまた彼自身の感情や選択による変化であって、おそらく作中で「成長」と呼ばれているものだろう。

 

 HEROコンビから話は逸れるが、2期はヘルカイザーのエピソードも印象的である。鮫島戦、吹雪戦、翔戦、各キャラが皆「彼を元に戻すために…」といった旨を口にするが、彼の意思が他者の働きかけによって変わることはない。吹雪戦では亮が「ヘルカイザー」になったのも彼が望んだ選択であり、いわゆる「闇堕ち」の類でないことが語られている。

 だからといって各キャラの働きかけや彼を案ずる想いが無駄だとは決して思わない。そりゃあ学園在籍時のカイザーからの豹変具合を考えたら心配にもなるだろう。(作中では「カイザーにはカイザーの考えがある」とヘルカイザーへの転身に彼の意思を見出してる十代のほうが少数派だ)

 それでも彼が「人の力で変わらなかった(元に戻らなかった)」のがGXの作風・価値観なのだと後から思い至った。人気が出たからそのままになった…等のメタ的な理由も想像できなくはないが、結果としては物語的な文脈においても「GXらしい」と感じる要素になっていると思う。

 人からどう言われようと、自分の人生を決めるのは自分自身なのである。その結論が大人になって見返すと非常に心地よく感じた。

 

 

GX世界の「オカルト」と「ビジネス」の話

 

 遊戯王シリーズの多くにはいわゆる「オカルト」的な(魂、精霊、呪いなど)さまざまな超自然的要素が登場する。

それらと対比されるのは原作(DM、DSOD)の海馬やZEXALのカイトが持つ「科学(テクノロジー)」であったりもするのだが、対比といっても安易な二分化ではなく、「表裏一体」または「地続き」のように語られるのがとても好きで、「善と悪」や「光と闇」のような相反する概念を複雑に描いてきた遊戯王シリーズの大きな魅力の一つであると思う。

 そしてGXでは「オカルト」的なデュエルモンスターズに対して「ビジネス」としてのデュエルモンスターズの対比が顕著であると考えており、十代とエドの各キャラ造形をそのアイコンとして見ている。

つまり「オカルトサイド」代表の十代と「ビジネスサイド」代表のエドだ。

 

 GX1期の「デュエルモンスターズ」の描写はものすごく「オカルト」に傾倒している。十代や万丈目や隼人による「精霊」との交流はもちろんのこと、高寺オカルトブラザーズ(サイコショッカーのエピソード)なんかはそのまんまなのだが、闇のゲーム、ダークネスの思念、墓守の試練、融合=錬金術、などなど挙げるとキリがない。

 そして2期で登場するエドは「プロデュエリスト」という肩書をアイデンティティとする最初の遊戯王キャラである。「プロリーグ」「プロランク」など、彼の登場を皮切りに、「職業:デュエリスト」つまり「ビジネス」のデュエルモンスターズで生計を立てている人々の世界が具体化していった。

 

 先ほどの話題と重複する部分もあるのだが、エドは結局十代側の「オカルト」の世界に染まることはない。DDや斎王の件で「破滅の光」の当事者とも言え、異世界では人間の生贄により召喚されるエクゾディオスの力も目の当たりにする彼だが、それらの要素に対する彼の中の「関心」、そして「理解」でさえ「受容」ではないように思う。(かつての海馬のように「非ィ科学的だ!」と叫ぶわけではないのだが)

 ただ、十代との関わりで「精霊が見えかける」というエピソードがあることにより「染まる可能性」が示唆されていると言え、前述のように二項対立的でない「遊戯王らしさ」になっている。世界は繋がっているのだ。

 そして更にその「繋がり」を補強するのが万丈目の存在である。万丈目は十代との交わりによりデュエルモンスターズの精霊と交流が可能になり、言わば「オカルトサイド」のキャラとも言えるのだが、終盤エドにプロデュエリストとして弟子入りし、プロとしての進路を決める「ビジネスサイド」のキャラでもある。(過去、財閥の末っ子として兄による「ビジネス」のデュエルに翻弄されるエピソードがあるのも良い)

 この対比において万丈目は「ちょうど真ん中」、世界と世界を繋ぐ存在だ。「オカルト/ビジネスの両サイドの物語で活躍できる」ポジションなのも、彼がGXの魅力を多く担う一因だったかもしれない。

 

 別のアングルで「間にいる」と感じるのはデザイナーとしてインダストリアルイリュージョン社に就職した隼人と、ペガサス会長である。彼らは「オカルト」的な、超自然的なインスピレーションで創作し、それを「ビジネス」としている。エドの父親がそちら側の人間だったことも面白い。

 

 一方で十代もプロやその他の職業としても「ビジネスサイド」の世界に進むことはなかった。ユベルとの超融合で超自然的な力を手に入れた十代は、言うなれば「その裏側」の世界で活躍することとなる。

 だがエドの登場により広がった「ビジネスとしてのデュエルモンスターズ」の世界に万丈目や翔、多くの仲間たちが進路をとる。教員の道を歩む明日香も広く「職業」としてはそちら側かもしれない。

 しかし世界は二分化されていないのだ。自ら異世界に残ったと思われる三沢も、おそらく十代と近しい世界に身を置くヨハンも、地続きな世界のどこかで自分の道を歩んでいるに違いない。

 

  GXの物語は、人と人との関わりにより相反する要素が交わり得る可能性を示唆しつつ、対比により物語の構造を美しく見せている。十代とエドのそれぞれの役割と、二人を含むキャラたちの関わりはそれらを鮮やかに可視化しているのだ。

 

 

 おわりに

 

 GX、何度見ても面白い!!

 今回書いたのはほんと~~に氷山の一角の感想だなと思うほど、見るたびにさまざまな感情がわき上がってくるアニメです。見たときの自分の年齢とか気持ちによっても全然味が変わるなとも思います。

 

 今回の記事、もしかすると途中で「佐藤先生の十代への糾弾を無視して話を進めてない?」とか「あのキャラは?あのエピソードは?」とか、様々なツッコミが生じたかもしれないですけど……そういった派生の話があればまた…どこかで…したいかも…しれないです…

 

 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

 GXの感想ブログが流行ればいいな~!